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[アジア・二大記]… 求法の旅
                
 1.「大唐西域記」   … 玄奬 著 インド・約20年の旅  「三蔵法師の道
                              (学術調査報告書)
 2.「入唐求法巡礼行記」… 圓仁 著 中国・約2,000k〜の旅 


 1.「大唐西域記」   … 玄奬 著

    (隋)
  617  唐 成立。李皇帝の友人 欧陽詢は、心許せる博学の側近として
       各国からの訪朝団を受け入れる、渉外担当大臣として活躍。
       漢字文化と共に、品格ある彼の書 そのものが 書写され 広まった。
       200年〜続いた仏教文化の隆盛も、儒教への偏傾から
       混乱を招き、崩壊へ..。
  845  仏教弾圧 (僧侶の還俗、寺の打ち壊し、経文など全て焼却など)
  875  黄巣の乱を経て、 唐 滅亡す。

                  「三蔵法師の道」学術調査報告書 … 参考
 
 ┌628 (玄奬27) 唐の都、長安を、密かに出て、亀茲(キジル)国から
 └645 ( 〃 44) 天山山脈南方、標高4,284mのベデル峠を越え
         キリギスに..カザス..ウズベク、タジキ、トルクメニスタン
         インド マガダ国(サーランダ寺院で5年) サンスクリット語。
         仏典を研究。ガンダーラを経て、アム川、パミール高原、
         カシュガル、ホータン、ニヤ、タクラマカン、南路、長安に帰国。
 
   ◎ 菅谷文則 (滋賀県立大学(考古学))教授より寄贈
 1997. 8/ 5〜 第一次 学術調査団団長......天山山脈から タシケントへ
 1998. 8/10〜 第四次  〃   〃        氷河と熱砂を越えて..
 1999. 7/10〜 第六次  〃   〃    出発された由。
      ※   釈迦生誕の地、遥かインドめざして 巡礼の旅へ〜
          玄奬の歩いた道を、詳しく学術調査しながら、
          数年〜精査、一回に8〜12名が、各々分担、現地調査....。
 
 2.「入唐求法巡礼行記」… 圓仁 著

  834 (承和元年) 正月 第17次遣唐大使任命後、
      [請益僧] 圓仁 同乗を許され、
             難波津(大阪港)より出航して博多へ。
  835 (承和2) 4舶で渡海を試みるが、難破。2舶を失う。
  838 (承和5) 博多より 渡海....圓仁(45)、惟正(25)、惟暁(26)
      日本を離れて、帰国まで 苦節 9年〜
      天台山、五臺山ほか、各地を巡礼して求法。
      天台、密教の大法・三部を授かり 大願成就。
    ※ “大唐の崩壊”に遭遇、混乱の中、 帰国直前、
      武帝(会昌元年) [会昌の仏教弾圧] 日々 厳しく
  845 (会昌5) ようやく 登州、文登県 に 到り着く(青寧郷)。
     8/24 [短い請願文].. (県令 長官に"旅行証明"を..)

    〜〜山を越え、野を渡りて〜..
      衣服は ぼろぼろに破れ、使い果した。
      乞食をしても、ただ命をつなぎ..その間に
      自ら舟を求めて 日本国に帰らして欲しい。
           日本国求法僧 圓仁      ※(匂当新羅所で食事)
◎ 847年 (承和14) 帰国。(9/18 博多、10月 太宰府、翌年 入京)
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  ◎ 問合せ 〈木の文化〉 井上唐木株式会社(著作権 井上昌一) 美術工芸 昌平



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